「美術」が世界を変えられるか問題は、しばしばアーティスト同士で議論になります。実例は多くあり、今日はその1つを紹介したいと思います。
1661年、フランスの大蔵卿(大蔵省の長官)の二コラ=フーケの城、「ヴォー=ル=ヴィコント城」が完成しました。
建築家=ルイ・ル・ヴォーの、優美な新城。
庭師=アンドレ・ル・ノートルの、完璧な秩序、階層、調和をつくりあげた幾何学に則った庭園。
それはフーケにとって夢の館と庭園でした。
完成祝賀会にはフランス国王の、ルイ14世が来訪しました。ところが祝賀会の約3週間後、城主フーケは逮捕されました。刑は終身禁固でした。
フーケは国王ルイ14世の怒りを買ってしまったのです。
彼の罪は王国の財産を奪ったとされていますが、真意はあの”美しい城”でした。
ルイ14世は”優美な装飾の館”と”幾何学で完成された美しさの庭”を持つフーケの城に嫉妬し、フーケを生涯牢の内に閉じ込めたのです。
ルイ14世は、ヴォー=ル=ヴィコント城から噴水や彫刻、木々に至るまですべてを奪い、魅力ある館を台無しにしました。そして奪ったものは、自身のヴェルサイユ宮殿建設予定地まで運ばせました。
ヴェルサイユ宮殿の建設にあたっては、フーケの雇っていた建築家ル・ヴォーに新城の設計をさせました。また庭師アンドレ・ル・ノートルはヴェルサイユ庭園の筆頭造園技師に任じられ、フーケの庭園をはるかに超える規模で再生する仕事に就きました。
「ヴォー=ル=ヴィコント城」を造った建築家と庭師を招集し、ヴェルサイユの新城設計を命令することは、ルイ14世がヴォー=ル=ヴィコント城の美しさにそれだけ心を奪われ執着していたことが分かります。
しかしながら当時のフランス国王に時間や資源の余裕はありませんでした。ルイ14世は23歳でまだ若き王のため、抵抗する大臣たちとの間で法整備をし、領主貴族ら、分離派プロテスタント、都市の最高裁として機能するなどの多忙に追われていました。地方での反乱や、近隣国との戦争も繰り返しありました。
そんな中でも乏しい資源をヴェルサイユ宮殿建設に注ぎました。
ヴォー=ル=ヴィコント城への「美」に囚われた執着があらゆる事業への判断力に勝ってしまった実例なのです。それはしばしば財務大臣とも揉めていたほどに強大な執着でした。
「美術」 ⇒ 今回は建築と庭園の美術領域でした。
それらの美しさが、フランス国王であったルイ14世の心を動かしました。
話をまとめると、
「ルイ14世がフーケの城に見ほれ、嫉妬し、執着心が芽生える」
⇒「パクるためにオリジナルの持ち主、フーケは投獄される」
⇒「ヴェルサイユ宮殿をオリジナルを造った芸術家たちに建設させる」
⇒「国内外情勢に割くはずの資金や時間をヴェルサイユの新城に充てる」
⇒「フランス国内外の情勢と、国家の財政に影響が出た」
ということです。
”風が吹けば桶屋が儲かる”ではないですが、「城の美しさ」が「国を変えた」のです。そしてこの「ヴェルサイユ宮殿」は「17世紀のフランス式庭園の展開の指針」となり今では世界遺産となりました。
さてさて、幾何学は今や数学の一分野として落ち着いていますよね。しかしながらルイ14世ら当時の立場では、仰ぎ見るような権威の学問であったのです。厳密で反論のしようのない定理群は、万物に行きわたる、奥深くも異論の余地のない帝王学の神髄のような秩序を表しているのです。
幾何学、うーむ。
完璧な秩序、階層、調和。否定できない理性の法則支配の構造です。
世界と王国の固有の秩序を独自的に解釈し、この世に表出させること。アートの在り方とも言えるのですが、フーケの場合、ルイ14世の王国の区画に「完璧な秩序の美」をつきつけたのが、国王と対抗的な立場に追い込んだのでしょう。
美術は世界を変える力となります。しかし”どういったものが”、”どのように”世界と人々に影響をもたらすのかを知るためには、時流およびアートシーンを読み解く必要があります。
また機会・ご要望があれば、別の「美術が世界を変えた話」をしていこうと思います。ではまた。